源頼朝から鎌倉時代の黎明期を見る1 頼朝誕生から伊豆配流・挙兵まで

鎌倉の歴史

鎌倉といえば鎌倉時代。鎌倉時代といえば源頼朝。日本の歴史を学ぶときにも必ず出てくる人物です。

そんな頼朝ですが、実際のところは「鎌倉幕府をつくった」くらいしか知らない人も多いことと思います。歴史が好きでなければそんなものでしょう。

そこで、今一度鎌倉を知ることの第一歩として、源頼朝の一生涯を追っていきたいと思います。その後、気力があれば北条氏から鎌倉時代の終焉まで…。

今回の年表

できごと
1147源頼朝誕生
1156平治の乱
1159保元の乱
1179平氏政権樹立
1180頼朝挙兵、治承・寿永の乱のはじまり

源頼朝の誕生から伊豆への配流まで

源頼朝は1147年に源義朝の子として誕生します。鎌倉幕府の成立が1185年(少し前まで1192)と言われていますから、 その38年前ですね。母は熱田神宮の大宮司である藤原季頼(すえより)の娘。熱田神宮は名古屋にある、三種の神器の一つ草薙剣が奉られているとされている神社です。とても大きい。

ですが、頼朝は京都の生まれと言われます。初めは政治の中枢にいたわけですね。

保元の乱・平治の乱

1156年、保元の乱が発生します。これは崇徳上皇と後白河天皇の争いで、源義朝と平清盛が協力して後白河天皇側についた争いです。頼朝はこのとき10歳で、特に何かをしたわけではありません。

頼朝が表舞台に現れるのは1159年の平治の乱です。平治の乱は、後白河院政の実権を握っていた信西を藤原信頼、義朝が急襲したものです。しかし、不在にしていた清盛が帰京すると上皇・天皇を確保して義朝らを攻めます。敗北した義朝らは京から逃げ、頼朝もこれに同行しました。

頼朝は逃避行の途中で義朝らとはぐれ、平氏方に捕らえられました。頼朝は平治の乱で成人として初陣を果たしており、捕まれば普通は殺されてしまいます。

しかし、清盛の継母である池禅尼は頼朝の助命を請願します。清盛はこれを受け入れ、伊豆に配流としました。こうして頼朝は命拾いをして、伊豆で約20年もの間を静かに過ごしていきます。

後の頼朝の隆盛を考えると、清盛はこの助命をどれだけ後悔したことか。歴史とは結果ですが、皮肉なものですね。

源頼朝の挙兵と鎌倉入り

伊豆での生活の中で、頼朝は北条政子と結婚します。のちの鎌倉幕府を率いていく北条氏との関係ができていく時期です。

一方の京も平穏ではなく、1179年、清盛は協調してきた後白河院をここに至って幽閉し、ついに平氏政権と言える状況に至ります。もちろんこれに反発する者も多く、そのうちの一人、皇子である以仁王は1180年、平氏追討の令旨を下します。ただ、これはすぐに平氏に露見し、協力していた源頼政とともに殺されてしまいます。

しかし一度発せられたこの令旨は全国の源氏に伝わっていき、頼朝もこれを受けて同年、挙兵を決意したのでした。この挙兵から平家滅亡の壇ノ浦の戦いまでの一連の争いを治承・寿永の乱、また源平合戦と言います。

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