20年の時を経て、ついに挙兵に至った源頼朝。手始めに目代の山木兼隆を討ち、三浦氏と合流するため伊豆から300騎で北上します。しかし、合流を図っていた逗子の三浦氏は途中で川の増水に阻まれ、頼朝のもとに向かうことができずにいました。
今回は写真がないです…。でもさみしいのでアイキャッチは頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮の夜を。
今回の年表
年 | できごと |
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1180.08 | 石橋山合戦 |
1180.10 | 源頼朝の鎌倉入り・富士川合戦・源義経合流 |
石橋山合戦
挙兵しての初戦はよかったものの、北上中に平氏方の大庭景親3000騎が前方、伊東祐親300騎が後方から攻めてきて、伊豆と箱根の境目、石橋山で衝突することになります。
多勢に無勢、頼朝軍は大敗を喫し、北条時政(北条政子の父)の嫡男、北条宗時が討死してしまいます。頼朝自身も追い詰められ、杉山に隠れていつか見つかるのを待つしかなかった…というとき、大庭景親一族の梶原景時がその姿を見つけると、逃亡を手助けしてくれたのでした。
間一髪、その場から逃れると、頼朝は土肥実平によって真鶴岬から相模湾に船で出ることができました。
三浦氏はというと、川に行く手を阻まれていたところを畠山重忠、河越重頼らに居城である衣笠城を攻撃され、義澄の父義明が討たれてしまいます。その間に三浦一族は逃れるように海上に出て、頼朝一行と合流します。
房総半島での再起と鎌倉入り・富士川合戦
房総半島にたどり着いた頼朝は、上総介広常、千葉常胤を味方にします。上総介広常は平治の乱で源義朝の長男・源義平に従い、千葉常胤は保元の乱で源義朝に従っていました。それが20年の時を経て再度合流したわけです。
この二勢力、さらに近辺の武士も糾合していく勢いを見て畠山重忠、河越重頼らも合流し、ついに鎌倉入りを果たします。先ほどのとおり両名は三浦義明の仇であり三浦一族は心穏やかではなかったようですが、頼朝はそれをなだめ諭したのでした。
そのころ、平清盛はこの頼朝の反乱を鎮めるべく派兵し、富士川合戦が勃発します。富士川は今の静岡県、駿河湾に流れる川です。しかし、この平氏の追討軍は行軍中にも頼朝軍の勢いを聞いて次第に士気が削がれていき、この富士川のあたりで撤退を決めたのでした。それは水鳥の羽音を敵襲と間違えるほどの衰退ぶりだったようです。
戦わずして勝利した頼朝は、そのまま平氏の追撃とともに上洛を指示しましたが、側近たちは今なお北関東など後背に脅威があることから反対し、頼朝はそれを受け入れ断念しました。
源義経の合流
富士川合戦では源義経が合流しました。義経といえば牛若丸、弁慶の話でも有名で、人気も高い人物ですね。
義経は京を逃れ、現在の岩手県、平泉の藤原秀衡の下にいました。秀衡の制止を振り切ってとも、頼朝の支援をするよう秀衡から送り出されたとも言われていますが、ともかくここから頼朝の下に向かったのでした。頼朝と義経は不仲で有名ですが、このころは頼朝としても秀衡の支援、また自分の後継としてなど、さまざまな期待を持って迎え入れていました。
本領安堵・新恩給与
富士川合戦の帰途、頼朝は本領安堵・新恩給与を行いました。本領安堵は土地の所有を認めること。頼朝によって土地が守られるというわけで、家人にとっては安心です。新恩給与は敵から没収した所領を恩賞として与えること。お給料ですね。これを受けた者たちが後々地頭となっていきます。
このやり方は家人に「頼朝のもとで働く価値」を与えました。働いて報いが得られるならみんな頑張りますね。頼朝軍はこうして強くなっていきますが、しかしこれは戦争があればこそ。もっと先のことになりますが、平穏な時代がやってくればこうした報いはなくなり(土地を奪うことがなくなるわけで)、源氏将軍家からの離反を招くことにもなります。
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